INTERVIEW

vol.1 商人のまちの「本質」を知る
商都大阪を牽引し続け、その歴史・文化が今あらためて注目されている街、船場。
この街で明治期より代々続く洋服店を営んでいる池田氏と、船場を拠点に様々な大阪の文化施策を指揮する橋爪氏。
船場の街をこよなく愛し、新たな価値創造に尽力してきたお二人に、その魅力を語っていただきました。
Facilitator
株式会社橋爪総合研究所 代表
橋爪 紳也
大阪府立大学研究推進機構特別教授、船場倶楽部特別顧問。工学博士。1960年、大阪市生まれ。2017年に「生きた建築ミュージアム」の活動を対象に、日本建築学会賞を受賞。著書多数。
Guest
株式会社池田商店 代表取締役社長
池田 吉孝
株式会社池田商店4代目社長、高麗橋2丁目振興町会長。1956年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。「船場博覧会」実行委員長として、船場の伝統と文化を紹介している。

大阪の歴史文化を担いながら、
都心居住の新たな理想へと
向かう街

01
「背広の時代」と
船場の近代化
橋爪氏
橋爪
池田さんとは「船場倶楽部」(※1)や「船場博覧会」(※2)など、船場のまちづくり活動で長年ご一緒しています。ご自身は生粋の船場の生まれ育ちで、いわば船場の生き字引のような方ですが。
池田
家業が洋服屋で、明治21年(1888)に創業して、私が四代目になります。当初は北区の老松町で商売をしていたのですが、「成功した商売人は船場、特に高麗橋という商売人にとって非常に良い場所で、一流の商売人に」ということで、明治37年(1904)に高麗橋に移りました。
船場 / 資料提供:橋爪紳也コレクション
船場 / 資料提供:橋爪紳也コレクション
橋爪
創業当時はどういった方が、主なお客様だったのでしょうか。
池田
銀行や証券会社の支店長さんクラスや、企業の社長さんたちに洋服を作っていたようです。当時はまだ、部長さん以下は着物を着ていたそうで。それだけ洋服が高級品だったということですね。
橋爪
船場が近代化し、企業が新しい商売を始めた時代に、主に経営陣の方を相手にしていた、と。
池田
売っていたのはスーツ、当時の言い方では「背広」ですね。そういったお客様が多かったので、ビジネスの一大拠点であった北船場の高麗橋に店を構えたようです。
橋爪
船場の建築などのモダニズムと、背広文化の広がりがシンクロしていた時代だったとも言えるでしょうか。
池田
今の店舗は久太郎町の「大阪センタービル」にあります。旧の伊藤忠の場所ですね。この界隈は今でも賑わいがあって、船場センタービルの雰囲気、昔の繊維街の雰囲気を引き継いでいる感じです。
三休橋周辺
三休橋周辺
橋爪
若い人が繊維問屋などをリノベーションしてお店をしていたりと、旧い雰囲気をうまく残していますから。
私は久太郎町に20年近く前に事務所を構えたのですが、それはちょうど船場が空洞化している時期で。このエリアをなんとかしないといけないと考えたいろんな企業の方や地域の方から求められて、活性化のためのアイデアコンペをしたんですね。その中で、船場の方々のネットワークを作ろうと、「船場げんきの会」(※3)というのを立ち上げました。
橋爪
その時に「街への提言をするならば、船場に飛び込め」とのご意見をいただいて、中船場の久太郎町に事務所を構えたんです。そこでの活動で、三休橋筋にガス灯を建てて散策できる道にしようとか、「船場建築祭」(※4)というのを立ち上げて、戦後のビルを見直そう、と。それまでの大阪はどんどんスクラップ&ビルドを進めていたのですが、旧いビルや建築物の価値を見直すことが大切だと。そうすることで、もう一度船場に人を集めたいという思いで活動を始めた場所が、まさに久太郎町でした。
池田
それが現在の「生きた建築ミュージアム フェスティバル大阪」(※5)につながってきているわけですね。
※1.「船場倶楽部」は2015年、大阪市がまちの無電柱化や回遊性の向上を目指しての案内板設置を推進するにあたり、その盤面制作と設置後の維持管理の協力をきっかけに発足。船場のまちの課題解決や新しい都心像づくり、船場の情報発信などを主な活動内容とする。橋爪氏は特別顧問、池田氏は理事を務める。
※2.「船場博覧会」は、毎年11月下旬に6日間にわたって行われる「まちの文化祭」。池田氏が実行委員長を務める。2020年はコロナ禍においても、ソーシャルディスタンス保ちながら、上方舞や能などの古典芸能から、キッチンカーやマルシェな、文化講演会などが行われている。
※3.「船場げんきの会」は2004年に発足。まちづくりや伝統芸能、アート、歴史研究、ビジネス創造など、船場をステージとするさまざまな活動グループが集まるプラットホームとして機能していた。2018年より「船場倶楽部」に統合して活動。
※4.「船場建築祭」は、大阪市立大学・都市研究プラザが運営する現場プラザ「船場アートカフェ」が主催した、建築とアートのイベント。2006年より開催され、現在は「生きた建築ミュージアムフェスティバル」へと引き継がれている。
※5.「生きた建築ミュージアム フェスティバル大阪」(通称「イケフェス大阪」)は、2014年より毎年秋に開催されている日本最大級の建築イベント。実行委員長は橋爪氏。歴史的な建築から現代の超高層ビルまで、150件以上の建築が公開され、多彩なプログラムに無料で参加できる。2020年はコロナ禍にあって、バーチャルで開催された。
02
堺筋と中船場から、
世界へと向かう
道修町の薬屋 / 資料提供:橋爪紳也コレクション
道修町の薬屋 / 資料提供:橋爪紳也コレクション
橋爪
船場は北船場、中船場、南船場と、南北方向に三つにブロック化されており、特に今は御堂筋や堺筋の南北軸メインで分割されているように思いますが、かつては横方向それぞれに特徴のある「通り」が主軸だったんですね。道修町のような薬屋の町があったり、久宝寺や久太郎あたりは化粧品屋さんや小間物屋さんとか。北船場に生まれ育った池田さんから見て、中船場や堺筋はどういうイメージですか。
池田
やはり繊維の問屋さんが多いというイメージです。近代日本で工業化されたものというのは、まずは生糸。その後に綿、さらには毛織物。それまでは輸入品ばかりだったのですが、日本で作られ始めました。そして戦後に化学繊維が増え、婦人服で使っている生地は昔でいう裏地を使っているようなものが多いので、中船場はそうした化学繊維を扱うところが、爆発的に増えた場所ですね。
明治の終わりに堺筋が広くなって、市電が通るようになったのは画期的な都市の変化でした。当時は堺筋に面して、4つの百貨店があったと聞いています。
橋爪
三越、白木屋、高島屋、松坂屋の4つですね。御堂筋ができる以前は、堺筋がメインストリートでした。南船場は服飾関係が多くて、丼池の問屋街などは今も残っていますけど、それが1970年の大阪万博に向けて都市の大改造がなされて、船場センタービルができました。
池田
天満橋のOMMビルもその頃ですね。箕面船場(※6)も同じ頃ですし、新大阪にセンイシティもできました。万博での都市開発と並行して、中船場から南船場にかけての繊維関係の会社が、みんな中心部から移動していった時期でした。
堺筋 / 資料提供:橋爪紳也コレクション
堺筋 / 資料提供:橋爪紳也コレクション
橋爪
中船場で発展した繊維関係のビジネスが、高度経済成長によって大阪の各所に展開していったという形ですね。
池田
「御綿八社」と言いまして、これは大阪弁の「御免やっしゃ」とは違うんですが(笑)、伊藤忠、丸紅、トーメン、ニチメンなど綿業の五つの大きな会社と八つの中堅繊維商社が本町の近くにありました。
橋爪
メーカーではなく、繊維関係の商社が多くあって、それが総合商社として発展していった。船場で生まれ育って、世界的な活躍をするようになっていった。
池田
近江から大阪へ出て、大きくなった会社もあります。
橋爪
だから近江商人の「三方良し」というエッセンスが、大阪商人にも入っているということですね。
※6.「箕面船場」は1970年に街開きした、箕面市南部の船場地区(住所表示は船場西、船場東)を示す。大阪市内の船場地区の過密化により、繊維卸商の問屋街のうち流通施設の多くが、住所表記ごと移転したもの。大阪船場繊維卸商団地(愛称:COM ART HILL)があり、2023年度には北大阪急行電鉄の延伸により、「箕面船場阪大前」駅の開設が予定されている。
03
船場商人の
「おもてなし」の精神
堺筋現地周辺
堺筋現地周辺
橋爪
そうした中で「船場ことば」や商いの文化が育まれていったわけですけど、ここで池田さん、典型的な「船場ことば」や言い回しなどを教えていただけますか。
池田
「船場ことば」というのはとても上品な言葉で、実は京都とそんなに変わらないんです。京都は「どす」、船場は「だす」という語尾の違いですね。あとは「来ない」というのを京都では「来(こ)えへん」と表現しますが、大阪は「来(き)いひん」とか。微妙なちがいはありますけど、よく似ていますよ。
池田氏
橋爪
商売人ならではの会話術などは、どうでしょう。
池田
まず「ごめんやす」とお店を訪ね、「おこしやす」と受けますよね。そのあとは値段の交渉とか。「そこまで値切られたら、かないまへんなあ」というところまで値切ってきたのに、結局買わなかったお客様のことを「火事場の蛤(はまぐり)」などと言います。「見ぃ(身)ばっかりで、買い(貝)くさらん」と。これはちょっとガラが悪い言い方ですか(笑)。
池田
あと「妹の縁談」とか。これは姉より先に妹が嫁に行くわけにはいかないので、姉に相談せねば、つまり「値(ねえ)と相談」ということで、値段によって買うか買わないかを決める、という表現です。
「袂(たもと)の火事」というのもあります。これは「高すぎて手が出ない」ということ。
橋爪
そういうユーモラスな言葉や表現は、船場の商いの妙味ですね。
池田
お客さんを嫌な気にさせずに、ちょっと面白い表現でやりとりする。そういうのを円滑剤にしていた。言葉でおもてなしする、という部分もありますね。うちの父親などは、結局はお断りして帰っていただくことになるお客様とも、15分ほどお話を聞いてやりとりして、機嫌よく帰ってもらっていました。そういうことを大事にするのが、船場の商売人です。
04
「職住近接」から広がる
可能性
橋爪
そんな船場が、空洞化した時代もありましたけど。
池田
戦時中に疎開をしなくてはならなくなるまでは、商店の裏に住んでいたり、近くに住んでいたり、店の2階に丁稚さんが住んでいたりと、職住近接の町でしたが……まあもともとお金持ちの人たちは、別荘や新宅を阪神間あたりに持っていたりしたので、空襲を恐れてそちらに移り、そのままという形になってしまいました。昔は会社も学校も土曜日は半ドンで、随分と人がいたのですが、日曜日になると船場はもうガラーンとして。幼稚園や小学校もずいぶん少なくなって。そういう時期を経て、今はまた変わってきましたよね。
橋爪
大正時代には、船場エリアに5、6万人が住んでいたそうで、かなり高密度だったと思います。町家の表側が店で、その裏側で生活して。戦後はオフィスビルがどんどん建って、人が住まなくなりました。十数年前には、船場地区の人口は5、6千人まで減りました。かつての10分の1ですね。それが、この10年ぐらいで、問屋街が空洞化したところにレジデンスやホテルができて、急速に人口が戻ってきました。これからの船場は、住んで、働いて、遊んでという、職住近接の街へと向かっています。最近では、このあたりにも美味しい店がたくさん増えているでしょう。
池田
もともと老舗の料亭などもあったのですが、近年は土日にもお客様が集まるということで、若い人に喜ばれるカジュアルな店も増えましたね。一方で味を重んじる格式のある店もあって、いろんな楽しみ方ができるようになっています。
橋爪
お洒落なイタリアンやフレンチが船場にも増え、名物のカレー屋さんもたくさんあります。
提供:2025年日本国際博覧会協会
提供:2025年日本国際博覧会協会
池田
これからの船場は、職住近接ということプラス、近年のインバウンド需要でホテルに海外の方がこられるようになり、観光にも便利な場所になってきましたので、そのポテンシャルを活かせればと思います。大阪メトロでどこに出るにも便利だし。
橋爪
2025年の大阪・関西万博に向けて、そういう傾向がより強まりますね。
池田
万博会場への主要アクセスは中央線ですから、キタやミナミのターミナルからも、乗り換えは全て本町になります。
橋爪
1970年の大阪万博の時に堺筋線が開通し、船場センタービルが完成し、地下鉄中央線もできました。それから50年を経て、次の万博に向けて、再び都心に活気が出る。博覧会の期間は半年だけですけども、街はその後何年も継続して発展を見ると思いますので、船場もますます盛り上がるでしょう。
05
「船場に住む」
という誇り
池田
私たちの「船場倶楽部」では、ここ11年間「船場博覧会」という秋の文化祭をやっております。この界隈には近代建築であるとか、昔ながらの食文化が残っている料理屋さんもありますし、古典芸能の舞台にもなっています。それらを大阪・関西万博を契機に、大阪の誇りとして広げていきたいですね。
大阪というと外から見ると、お笑いと粉もんのB級グルメと虎キチと、あとはヒョウ柄のおばちゃんたちが元気で、というステレオタイプのイメージがあります。そうではなく、「上質の大阪」というものを、船場から発信していきたいと思っています。
堺筋現地周辺
堺筋現地周辺
橋爪
もともと船場商人は、古典芸能などの洗練された素晴らしい文化を生み出し、また支え続けてもきました。もちろんそこには大衆的なものも含まれますが、その一部だけが大阪だというイメージになりましたけど、本質は違います。池田さんご自身も、踊りの「上方舞」をしておられるんですよね?
池田
上方舞の「吉村流」ですね。まだ名取ではないのですが。
橋爪
船場で生まれた洗練された伝統的なものや新しいアイデアも、都心から人が郊外に移り住む中で、だんだん弱ってきた。そこにもう一度新しい人たちが入ってくることで、また新しい船場文化が生まれるのではないでしょうか。
池田
そうなるといいですね。あと船場は、季節の営みを大切にしてきました。お正月、お雛祭り、薮入りとか。こうしたことは、「船場博覧会」や「船場ひな祭り」にも引き継がれています。また商売というのはいくら頑張っても、社会情勢などでうまくいかないこともありますから、神仏をとても大切にしています。不可避の災難をなるべく避けて商売を継続できるように、という意味あいですね。
「船場に住む」ということは、便利な都心に住むことだけではなく、この街の歴史や文化を感じながら暮らすということだと思います。そのことを、「自分たちも大阪の歴史や文化の中に身を置き、それを次世代に伝える立場にある」という誇りとして感じてもらえるようになるとうれしいですね。