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浅草の魅力

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江戸時代から続く
「住まう場所」としての系譜

『ローレルアイ浅草レジデンス』が建設される周辺は、
旧奥州街道沿いに江戸時代前期に街が創られ「新鳥越町」と呼ばれました。
そこから隅田川河畔にかけては当時から町屋だけでなく多くの寺社もありました。
町人文化が華やいだ江戸時代後期には、ほど近い場所に歌舞伎興行の街ができ、その先の浅草寺の参詣客も増えたことで芸能・祭礼も盛んになり、それを支える工芸・料理の技術も磨かれ文化の発信地となりました。
副都心のひとつにかぞえられる現在も、お寺や神社の境内の緑やお祭り、老舗の料理や伝統工芸など、他にはない文化と潤い豊かな街でありつづけています。
栄華を極めてきた浅草寺周辺。
環境はその華やぎを間近にしながら、
暮らしを豊かに営みながら住まう場所として、江戸時代から歴史が刻まれています。

©(有)菁映社、(株)APPカンパニー、中川惠司

1845年〜1860年頃の浅草の古地図

2022年現在浅草の地図

浅草の歩み

History

628年 推古天皇36年

浅草の由来

狩野氏信筆「武蔵国浅草寺寛文縁起絵巻」(本尊感得の図)「絵葉書資料館蔵」より

漁師の檜前浜成・竹成[ひのくまのはまなり・たけなり]の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で網にかかった仏像を持ち帰り、この地域で物知りの土師中知[はじのなかとも]という土地の長に相談したところ観音菩薩像であることがわかり、堂に祀ったのが浅草寺の始まりとされています。後に地域の人々がこの三人の祖先を神として祀ったのが浅草神社の三社祭の起源と言われています。

1181年 治承5年(鎌倉時代)

歴史書『吾妻鏡』

「浅草」という地名の確実な資料における初見は、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』であると言われています。1182年に源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せており、1192年に源頼朝により行われた後白河法皇の法要に浅草寺の僧が招かれました。

1590年 天正18年(安土桃山時代)

徳川家康も武運を祈念

徳川家康が江戸に入府。家康により浅草寺は祈願所に定められ、以後篤い庇護を受け参詣者も増えていきます。

1646年 正保2年(江戸時代前期)

新鳥越町の成立

現在の台東区鳥越にあった熱田神社とその氏子の住居が奥州街道沿いに移転し、『ローレルアイ浅草レジデンス』の周辺は新鳥越町として街が創られました。さらに1600年代後半には江戸の街の拡大に伴い新鳥越町の周囲に多くの寺院が移転、街の性格が多様化しました。

  • 寺院・神社
  • 町屋・長屋
  • 武家屋敷
  • 山林・田畑・入会地
浅草古地図

©(有)菁映社、(株)APPカンパニー、中川惠司

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1685年 貞享2年(江戸時代前期)

観光都市としての繁栄

浅草寺の参詣者が増えたことで、境内表参道には「仲見世」の前身である商店が設けられました。その後、江戸時代中期になると境内北西部の奥山と呼ばれる区域(現在の「ロック座」から「花やしき」あたり)では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の観光・娯楽の場となってゆきました。

浅草雷門

台東区立図書館デジタルアーカイブより

江戸の華のはじまり

隅田川花火大会

台東区立図書館デジタルアーカイブより

隅田川花火大会は江戸時代前期から中期に隅田川での船遊び・納涼花火解禁日に花火師の鍵屋・玉屋が自身の花火を宣伝する目的で大々的に花火を打ち上げたことに始まります。

1820年代 (文政年間 江戸時代後期)~1923年(大正12年)

新鳥越町に「八百善」が創業

浅草 八百善

江戸高名会亭尽 八百善(歌川広重筆)

会席料理を確立し江戸で最も成功した料亭の一つである八百善は、新鳥越町二丁目(『ローレルアイ浅草レジデンス』のひとつ南側の街区)に創業。当時の料理テキストの刊行、文人墨客・徳川幕府要人も訪れるようになります。明治期にも繁盛は続き、海外の来賓の饗応料理を担当するなど食文化をリードし続けました。

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浅草の古地図

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1842年 天保13年(江戸時代後期)

芝居の街『猿若町(さるわかまち)』 

芝居の街浅草『猿若町(さるわかまち)』

台東区立図書館デジタルアーカイブより

徳川幕府により現在の人形町から銀座あたりに存在していた歌舞伎興行の芝居小屋(中村座・市村座・森田座)と役者の住まいが、猿若町(現在の浅草6丁目の一部)に集められました。役者や作者が集まることで芝居の演目が充実するとともに、浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになりました。当時の歌舞伎興行は丸一日で演目が組まれたことにより芝居中や休憩時間の食事の仕出し業も盛況となりました。また、多くの寺社の祭礼用品制作に加え歌舞伎興行のための楽器・衣装・舞台装置など高い工芸技術の集積を伴い、猿若町とその周辺には現在も老舗の料理や伝統工芸が人々によって受け継がれています。

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1873年 (明治6年)

浅草寺境内が公園地に指定

明治時代になると新政府は、欧米諸国の先進国にならって、周辺一帯を浅草公園として整備。林泉公園地区(後の四区)や興行地区(後の六区)など全体が7つの区画に分けられ1886年に開園しました。五区に位置していた浅草花やしきは遊園地・動物園として人気を博し、1890年(明治23年)に竣工した電動式エレベーターを備えた展望塔「凌雲閣」(地上52m・12階建て)も新たな観光名所となりました。

©(有)菁映社、(株)APPカンパニー、中川惠司

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隅田川のほとりは、別荘地として愛された地。

現地近くの隅田川の河畔(隅田公園から白髭橋)は風光明媚な地として著名人たちが別荘を構えました。身近に歌舞伎や演芸、名料理店、優れた工芸品・衣料品が揃うという文化レベルの高さも魅力であったことでしょう。

別荘を構えた著名人

  • 三條 実美さんじょう さねとみ
  • 神木 治三郎かみき じさぶろう
  • 有馬 頼寧ありま よりやす
  • 郷 誠之助ごう せいのすけ
  • 池田 茂政いけだ もちまさ
  • 松平 慶永まつだいら よしなが
  • 伊達 宗城だて むねなり
  • 坂東 三津五郎ばんどう みつごろう
  • 喜多村 緑郎きたむら ろくろう
  • 大瀧 勝三郎おおたき かつさぶろう
  • 沢村 宗十郎さわむら そうじゅうろう
  • … 明治維新政府の中心的公卿
  • … 浅草に神木銀行を創立
  • … 元久留米藩主、競馬の有馬記念を創設
  • … 実業家、弟は三菱財閥の養子に
  • … 元岡山藩主
  • … 元福井藩主
  • … 元宇和島藩主
  • … 歌舞伎役者
  • … 舞台俳優
  • … 興行師、歌舞伎のかつら職人
  • … 歌舞伎俳優
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